紙筒移植が生産を変えた
昭和36年には画期的な安定多収技術として紙筒移植栽培法が開発され、大幅な生産増につながったと記される。苗を紙筒で育ててから畑に移すことで、寒冷地の短い生育期間を実質的に前倒しできる。てん菜の作型を語るとき、直播か移植かがまず分かれ目になるのはこのためである。
- 北海道 農政部生産振興局農産振興課「てん菜栽培の歴史」公開情報の最終確認 2026.08.01
COMMON CROP / SUGAR-BEET
明治の殖産興業が持ち込み、一度潰えたのち十勝で根づいた砂糖の作物。
01 / ARRIVAL
年代の確からしさは、遺跡の出土によるものと、文献に記されたものとで違います。どちらの根拠なのかを区別して記録します。
日本で最初のてん菜栽培は、明治3年 (1870年) に内務省勧農局が西洋作物種子導入政策により海外から取り寄せた亜麻、ビール用二条大麦、てん菜の種子を東京府開墾局で試作したのが始まりと記される。北海道では明治4年に北海道開拓使の札幌官園で栽培試作されたのが始まりとされ、開拓使は札幌農学校にも試作を依頼した。明治11年 (1878年)、内務省勧農局長の松方正義がパリ万国博でてん菜糖業の隆盛を目の当たりにしたことから、フランス人技術者を招き製糖機械をフランスから購入し、北海道胆振国有珠郡紋鼈村 (現在の伊達市) に勧農局直営のてん菜糖工場を建設、明治13年に完成した。ただし官営工場は収支が合わず明治19年に北海道庁へ移管、民営化後も明治29年に解散し、札幌の製糖工場も明治34年 (1901年) に解散した。
02 / LINEAGE
初期のてん菜はヨーロッパからの導入品種に依存しており、紋鼈の官営工場時代には「クラインワンツレーベン」種と「ヴィルモーラン」種が用いられたと記される。その後、北海道の気候と病害に合わせた国内育成が進み、種子の形も変わった。現在のてん菜種子は、雄性不稔系統の単胚種子親と多胚花粉親を交配した単胚一代雑種の利用が主流と説明されている。
系統どうしのつながりは、公開情報から確認できていません。ここでは並列に記録します。
内務省勧農局が西洋作物種子導入政策により海外から取り寄せ、東京府開墾局で試作した種子。品種名は記録に残されていない。
1870年 (明治3年)
紋鼈の官営てん菜糖工場の時代に用いられた品種のひとつとして挙げられる、ヨーロッパ由来の導入品種。
明治期
同じく当時の栽培品種として挙げられる導入品種。初期のてん菜糖業が種子を海外に依存していたことを示す。
明治期
雄性不稔系統の単胚種子親と多胚花粉親の交配による単胚一代雑種の利用が主流になっていると説明される。一粒から一本しか出ない単胚種子は、間引き作業を減らし機械化と移植栽培を支える前提になっている。
現行
03 / NOTES
統計上の定義や用途の区分など、数字を読むときに前提になる事柄を残します。
昭和36年には画期的な安定多収技術として紙筒移植栽培法が開発され、大幅な生産増につながったと記される。苗を紙筒で育ててから畑に移すことで、寒冷地の短い生育期間を実質的に前倒しできる。てん菜の作型を語るとき、直播か移植かがまず分かれ目になるのはこのためである。
北海道の畑作では、小麦・てん菜・豆類・ばれいしょを組み合わせた輪作が地域ごとのパターンで営まれており、てん菜はその一角を占める。深根性で土壌の透排水性に働きかけること、有機物を投入しやすいこと、連作による土壌病害を避けられることが、輪作に組み込む理由として挙げられる。てん菜の作付けが減ると砂糖生産だけでなく輪作の組み立て自体が揺らぐため、輪作体系の維持という観点から議論されている。
明治の官営てん菜糖業は明治29年の民営事業解散、明治34年の札幌工場解散で一度途絶えた。大正9年から10年 (1920〜21年) にかけて、十勝国の大正村河西 (現在の帯広市川西地区) と人舞村 (現在の清水町) に製糖工場が設立され、ここでてん菜の栽培が再び始まった。現在の北海道てん菜糖業は、この二度目の立ち上がりの延長線上にある。
04 / EXPLORE
この作物の収穫量の推移は統計の索引に、土地に根ざした品種は在来の台帳にあります。